築 堤 の 謎
蛙ヶ鼻築堤跡
はじめに  高松の水攻めには、数多くの古図・文献が残されていますが、一貫性はなく、今だ推定の粋を出ることはありません。実は「築堤」は残っていないのです。唯一遺構であるとされている「蛙ヶ鼻(かわずがはな)」は元々その地形であり、水攻め時に「築堤」の片端であった事はわかっています。1998年の蛙ヶ鼻周辺の発掘では、木杭や土のうを積んだ幅24mの築堤跡が出現し、「築堤」が確かに存在した事が確認されています。しかし、依然として謎も多く、ぜひみなさんも、この「謎」にトライしてみてください。
目次
謎その① 築堤の大きさ
謎その② 長さと位置
謎その③ 誰が考案したの?
謎その④ なぜ水攻めなの?
謎その⑤ お城水没?
おわりに・・・
謎 その① 築堤の大きさ
 1つ目の謎は「築堤」の大きさ、高さと幅である。
 1998年に岡山市教育委員会は「蛙ヶ鼻築堤址」の発掘調査を実施している。その調査では、土俵が積み上げられたあとが約24mの幅(底辺)で確認され、ほぼ記録と一致する事が確認された。残念ながら高さは確証に至っていない。最近の調査では、7mの高さでは高松城は水没してしまうことがわかっている。
さらに1m造るのに115.5m3×1.8t/m3=約200トン、1回30キロを運んだとしても約7000個。実際は流れたり圧縮されたりしているので、相当の人工が必要だったと思われる。
 
謎 その② 長さと位置
 2つ目の謎は「築堤」の長さである。説は色々とあり「3キロ」「4キロ」ととてつもなく長い。秀吉は、この「築堤」をわずか十二日間で造らせたとされ、一端が「蛙ヶ鼻」でもう一端がJR足守駅近くの「水取口跡」付近といわれています。
 近年の調査で、城を孤立させるには長さ3キロの必要性はないといわれており、蛙ヶ鼻から180号線付近までの300mで足りるそうです。たとえ300mとしても、6万トンの土が必要で、12日で築くには一日5千トン相当の土を運んだことになります。
 
(水取口跡 岡山市福崎)
謎その③ 誰が考案したの?
 秀吉の水攻めと言われますが、考えたのは「黒田官兵衛」だと言われています。秀吉は生涯何度か水攻めを行っていますが、成功したのは高松の戦いだけです。
 実際に築堤を築いたのは宇喜多勢でした。周辺の村の百姓達にお金、お米と引き換えに土を運ばせました。おそらく何万人という人が交代で働いたと考えられます。出費もかさみました。蛙ヶ鼻の発掘調査では、人骨なども見つかっており、相当な人と工事が突貫であったことを伺えます。
謎その④ なぜ水攻めなの?
 黒田官兵衛は、秀吉家臣の蜂須賀氏と共に先に備中へ入っています。信長の親書をもって単身高松城にも行っている事から、付近の状況を良く理解していたものと考えられます。
 長年水攻めを研究している林信男氏によれば、もともと高松城は川の自然堤防上に築かれた城であり、大水がでると付近一帯は水に浸かってしまう、それをうまく利用した城であるということです。(詳しくは林氏著「備中高松城水攻の検証」)
 城の廻りは沼のような湿地帯で、人も馬も容易に近づけない。官兵衛は地の利を逆手に取り、堤防を築いて城を孤立させる「奇策」を思い付いたのです。戦国時代は次の戦に備え、いかに兵力を温存しながら攻めるかが重要であり、無駄な戦いはしませんでした。兵糧攻めや、ゆさぶり、甘いさそい等、力でねじ伏せるだけでなく、策略をもって勝つのも一つの方法でした。
 
謎その⑤ お城水没?
 水位がどのくらいあったかは解かっていません。城兵が溺れて死んだという記述が見られず、また清水宗治は意気消沈する家臣を励ますために、粗末な舟に乗って城内を廻ったと伝えられることから、城が水没するほどではなかったと思われます。
 城を孤城にする事により、精神的な圧力と、戦意の喪失、兵糧と救援を絶つのが狙いだったのでしょう。お城には、突然の水に逃げる蛇や鼠などが上がってきたとされ、悲惨なものだったようです。おそらく床下か床上浸水ではないかと予測されます。
 
おわりに・・・
 高松で生涯をかけ、郷土歴史を研究された林信男氏が他界されました。1999年11月に自費出版された、「高松城水攻の検証」は他に類のない歴史本で、237ページに及び、地理学の教授、歴史研究家の面々が水攻めの検証を行っています。(購入希望の方は、本丸北側にある清鏡庵か資料館へお尋ね下さい。読んでみたい方は高松公民館の図書室で探してみてください。)高松に行くと、林先生の家を訪ねお話をさせていただく事がありました。歴史の裏話など、教科書では知りえない事など聞けて楽しい思い出です。
 一度、私は歴史は苦手で地理を専攻したという話をしたとき、「何をいうんなら、歴史には地理は重要なんじゃ。勉強はどんな事にも役に立つから、しっかり勉強しなさい」とおっしゃられ、ご自分も熱心に勉強をされておられました。いつも「若い人よ、がんばりなさい」と叱咤激励して下さり、本当にすばらしい先生でした。 H24.5追記