陣 営 配 置 図 「 秀 吉 の 本 陣 跡  」
 マウスをあわせてみよう。 石井山
 高松に到着した秀吉は、最初龍王山(現在最上稲荷)に着陣しました。しかし、築堤を築く頃には石井山に陣をかえています。石井山の方が高松城が手に取るように見えるのと、足守川の増水で毛利勢がうかつに近づけないことで安全がある程度確保できたからと考えられます。
 秀吉は、生涯4度の水攻めをしましたが完全に成功したのは最初の高松城だけでした。次に失敗しながらも何度も水攻めを決行したのは、やはり最初に成功した自信と、知と天候をも見方につけたこの水攻めが延々と秀吉の脳裏に残っていたのかもしれません。
周辺の史跡
太閤岩 
宗治の首塚跡
池上孫兵衛の墓
アクセスマップ
太閤岩
 石井山の秀吉の本陣跡からは、現在も備中高松城を望む事が出来ます。さらに進むと、秀吉がいたとされる「太閤岩」があります。(本陣跡から太閤岩までは細い道で、草で覆われている時期もあります。)
 
宗治の首塚跡
 宗治の首は検視役の堀尾茂助によって秀吉陣まで運ばれました。宗治の立派な最後をみとった秀吉は、家臣に命じて、当時石井山にあった持宝院に供養塔を建てさせました。
 明治42年に首塚は本丸に移されましたが、首塚には月清入道と宗治の彫刻が掘られており、後に誰かが作らせたものと考えられていますので、当時秀吉がどんな供養塔をたてさせたかは判明していません。
 移設時に、供養塔の下から「首瓶」が出てきて、杯(さかづき)、歯などが見つかりました。杯は宗治が自刃の際、秀吉から送られた酒を飲んだ杯ではないかということ推測されます。
 移設後、首塚の跡には、新たに宗治の墓が建てられました。この墓石の裏に、施工主の池上氏の名が掘られています。池上氏は宗治の娘が嫁いだ先で、名を「池上孫兵衛(いけがみまごべえ)」と言うそうです。新しい石碑は、池上孫兵衛の子孫がたてたものです。
 
池上孫兵衛の墓
 宗治の娘婿だった池上孫兵衛の墓が、石井山からおりたところにある持宝院の近く、消防櫓の下あたりにあります。資料館で聞いた話では、あくまで推測ですが、宗治の娘が嫁いだということで、おそらく地元の有力者ではなかったかと推測しているとのことでした。
  
アクセスマップ
石井山登山口
駐車場は蛙ヶ鼻の築堤公園にありますが、持宝院方向から普通車で入るのは困難です。高松城から遠くありませんので、徒歩でも大丈夫だと思います。持宝院脇に上り口があります。