人 間 相 関 図 と 登 場 人 物
はじめに  信長に京を追われた将軍足利義昭は毛利領内へ逃げ込み、毛利と織田の対決は避けられないものとなりました。直家が亡くなった直後の宇喜多家は遺言に従い、秀吉を後見人として毛利から織田へ寝返ったのもこの時期です。毛利は元春、隆景の両川が甥っ子の輝元を支える体勢が出来上がっていました。安国寺恵瓊は毛利の外交僧侶でしたが、次第に秀吉に近づいていきます。
 この戦では小早川隆景が中心となり、秀吉との間に恵瓊が交渉役として登場、毛利と織田の仲介を行いますが「宗治の命」をめぐって両者の折り合いがつかず、最後は宗治へ直接交渉、宗治は自刃を受け入れ決着をみます。
主な登場人物
毛利勢 織田勢
足利義昭
毛利輝元
吉川元春
小早川隆景
清水宗治
安国寺恵瓊
織田信長
羽柴秀吉
明智光秀
黒田官兵衛
宇喜多八郎
お福の方

足利義昭 あしかがよしあき
1537-1597
室町幕府15代将軍、信長の援助もあって将軍となるが、次第に信長の力を恐れ、打倒信長を画策する。信長に京を追われて各地を転々とし、最後毛利を利用して信長を倒そうとするが、備中高松の戦で毛利が敗れ、信長が亡くなり、秀吉の時代がくると次第に影響力も失われ、出家し秀吉の家臣となる。
 

毛利輝元 もうりてるもと
1553-1625
毛利元就の孫、父隆元の早死により、元就の後、家督を継ぐ。隆元と吉川元春、小早川隆景は毛利三本の矢に称され、元春、隆景が両川となり、輝元を支えた。輝元にとってはコウルサイ叔父達であったようである。備中高松では、遠く猿掛城に陣を置き、深く関わることはなかった。毛利家はこの戦を期に秀吉の配下となり、輝元は後に五大老の1人となる。
 

吉川元春 きっかわもとはる
1530-1586
毛利元就の次男、毛利の両側を支える一人。情深い男で、鳥取城の戦に送り込んだ吉川経家が篭城のすえ自刃し落城すると、退路を絶って秀吉を追いかけた程である。高松でも、宗治の命を助けんと、一時的な秀吉への寝返りを勧めたとも伝えられる。後、秀吉が嫌いで広家に家督を譲る。度重なる要請に出陣するが、秀吉に会う直前急死し、秀吉が「死んでまで会いたくないのか」と言ったという。
 

小早川隆景 こばやかわたかかげ
1533-1597
毛利元就の三男、知的であり非情な所もある。高松の戦の後、信長の死を知った毛利の追撃を恐れる秀吉へ家臣黒田官兵衛は、隆景は思慮深い男だから大丈夫であると断言している。実際、隆景は追撃を主張する家臣に向かって、今書いた墨も乾かぬうちに約束を破るのかと諌めた。秀吉の天下統一に積極的に加わり、信頼関係を築き、毛利家の為に奔走する。
 

清水宗治 しみずむねはる
1536-1582
備中高松城の城主、義理堅く、忠義の武士。秀吉の家臣黒田官兵衛が、2度城を訪れて宗治に投降を促すが、丁重にこれを断ったとされる。戦国の世にあって珍しい男だと言わせた。冷静な目と主君への忠義で毛利家の信頼も厚く、宗治の切腹を避ける為和議がまとまらず、交渉役恵瓊は宗治に直接交渉せざるを得なかった。
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安国寺恵瓊 あんこくじえけい
1539-1600
安芸の守護武田氏の血筋を持つが、武田氏が滅びると毛利の外交僧となった。数年前に信長の死?を予言、秀吉を「さりとてはの者」といったのは有名な話。備中高松の戦では交渉役となり、和議をまとめ、大名にまで上り詰めた。一方、多くの寺等を普請(建築)した事は、あまり知られていない。
 


織田信長 おだのぶなが
1534-1582
独創的なスタイルで戦国を駆け登った織田信長。天下統一に向け、中国地方平定に羽柴秀吉2万の軍勢を差し向けた。秀吉は備中高松で信長へ出陣を要請、途中京の本能寺に滞在中、家臣明智光秀の謀反にあい、6月2日、天下統一の夢が果せぬまま、命を落とした。
 

羽柴秀吉 はしばひでよし
1949-1598
後の豊臣秀吉。尾張の百姓から戦国大名へ、信長のなし得なかった天下統一をはたす。信長より備中高松攻めを任され、2万の軍勢を率いて備中入。本能寺の変で信長が亡くなるを知ると、毛利と急ぎ講和し、2万の軍勢を率いて3日間で姫路へ帰還、謀反を起こした明智光秀討伐へと動く。宇喜多直家の子八郎の後見人として、信長への仲介をした。後に秀吉は隆景に会うたびに、宗治と水攻めの話を持ち出したといわれている。
 

明智光秀 あけちみつひで
(1528)-1582
織田信長家臣、秀才といわれる。浪人の後、朝倉氏に遣え、信長上洛に関わり足利氏と信長を結び付け、信長の家臣となった。理由はわからないが、備中高松へ出陣する為、京の本能寺に宿泊中の信長を襲う謀反を起こす。清水宗治切腹の2日前、6月2日の話である。
 

黒田官兵衛 くろだかんべえ
1546-1604
秀吉の家臣、軍師でもある。頭が良すぎ、秀吉からも天下を狙っているのでは?と疑われる。鳥取城の兵糧攻めや高松の水攻めを考えたのも官兵衛だと言われている。備中高松では事前交渉の為に2度宗治を訪ねている。別の戦では1年も幽閉されたことがある。
後に自分が時々見誤るのは何故かと隆景に聞いたところ、「あなたは感で物事を決めてしまう、私は何度も深く考えて物事を運ぶからです」と隆景が助言したのは有名な話。
 

宇喜多八郎 うきたはちろう
1573-1655
後の宇喜多秀家。父は宇喜多直家、母はお福の方。高松の戦の前年に直家が亡くなり、宇喜多家は叔父の忠家が幼い八郎を支えていた。直家の遺言もあり、秀吉を後見人に織田に寝返る。その秀吉も少し疑っていたようで、備前の沼城にとどまって宇喜多の動向を調査している。宇喜多家は1万の兵を出し、築堤の土のうや人員確保も全て段取り、宇喜多家にとっても生き残りを掛けた戦であった。八郎は、秀吉から一文字もらって秀家となり、秀吉の養女であった前田家の豪姫が嫁入りするなど、信頼関係も厚く、五大老の1人まで上りつめた。
 

お福の方 おふくのかた
八郎の母、直家の妻。高田城主三浦氏の元妻、三浦氏が滅ぴ、放浪中捕らえられますが、宇喜多直家にみそめられ妻へ、八郎が誕生。直家亡き後、備中高松へ来た秀吉はお福の方が気に入り、後に側室として向かえています。絶世の美女だったのでしょうか?