|
織田信長 おだのぶなが |
|
1534-1582
独創的なスタイルで戦国を駆け登った織田信長。天下統一に向け、中国地方平定に羽柴秀吉2万の軍勢を差し向けた。秀吉は備中高松で信長へ出陣を要請、途中京の本能寺に滞在中、家臣明智光秀の謀反にあい、6月2日、天下統一の夢が果せぬまま、命を落とした。
|
|
羽柴秀吉 はしばひでよし |
|
1949-1598
後の豊臣秀吉。尾張の百姓から戦国大名へ、信長のなし得なかった天下統一をはたす。信長より備中高松攻めを任され、2万の軍勢を率いて備中入。本能寺の変で信長が亡くなるを知ると、毛利と急ぎ講和し、2万の軍勢を率いて3日間で姫路へ帰還、謀反を起こした明智光秀討伐へと動く。宇喜多直家の子八郎の後見人として、信長への仲介をした。後に秀吉は隆景に会うたびに、宗治と水攻めの話を持ち出したといわれている。
|
|
明智光秀 あけちみつひで |
|
(1528)-1582
織田信長家臣、秀才といわれる。浪人の後、朝倉氏に遣え、信長上洛に関わり足利氏と信長を結び付け、信長の家臣となった。理由はわからないが、備中高松へ出陣する為、京の本能寺に宿泊中の信長を襲う謀反を起こす。清水宗治切腹の2日前、6月2日の話である。
|
|
黒田官兵衛 くろだかんべえ |
|
1546-1604
秀吉の家臣、軍師でもある。頭が良すぎ、秀吉からも天下を狙っているのでは?と疑われる。鳥取城の兵糧攻めや高松の水攻めを考えたのも官兵衛だと言われている。備中高松では事前交渉の為に2度宗治を訪ねている。別の戦では1年も幽閉されたことがある。
後に自分が時々見誤るのは何故かと隆景に聞いたところ、「あなたは感で物事を決めてしまう、私は何度も深く考えて物事を運ぶからです」と隆景が助言したのは有名な話。
|
|
宇喜多八郎 うきたはちろう |
|
1573-1655
後の宇喜多秀家。父は宇喜多直家、母はお福の方。高松の戦の前年に直家が亡くなり、宇喜多家は叔父の忠家が幼い八郎を支えていた。直家の遺言もあり、秀吉を後見人に織田に寝返る。その秀吉も少し疑っていたようで、備前の沼城にとどまって宇喜多の動向を調査している。宇喜多家は1万の兵を出し、築堤の土のうや人員確保も全て段取り、宇喜多家にとっても生き残りを掛けた戦であった。八郎は、秀吉から一文字もらって秀家となり、秀吉の養女であった前田家の豪姫が嫁入りするなど、信頼関係も厚く、五大老の1人まで上りつめた。
|
|
お福の方 おふくのかた |
|
八郎の母、直家の妻。高田城主三浦氏の元妻、三浦氏が滅ぴ、放浪中捕らえられますが、宇喜多直家にみそめられ妻へ、八郎が誕生。直家亡き後、備中高松へ来た秀吉はお福の方が気に入り、後に側室として向かえています。絶世の美女だったのでしょうか? |
|