ゆ か り の 地 「 佐 賀 ・ 肥 前 名 護 屋 城 跡 」 
名護屋城跡
 名護屋城跡は、肥前国、現在の佐賀県唐津市にあります。天正19(1591)年、秀吉は朝鮮攻めのため、各地の大名に命じ、この地に城を築き始めます。文禄元(1592)年〜同2(1593)年、慶長2(1597)〜同3(1598)年、2度に渡り朝鮮を攻めますが、朝鮮・明軍の激しい抵抗にあって成功せず、慶長3年、自らの死によって終息したのです。
 清水宗治の息子景治は、小早川隆景隊1万五千におり、文禄2年、碧蹄館の戦で戦功を上げています。李如松率いる2万の明軍と、小早川らが率いた2万の軍勢が激突した大きな戦いでした。

 佐賀の生北端にある肥前名護屋城跡は、玄界灘に面した広大な敷地に石垣が残る国の史跡となっています。

出典:文化財オンライン「肥前名護屋城図屏風」より





歩き回れるような範囲ではなく、車で小早川陣を探します。



城の西側にありました。



道路脇には、各陣跡の説明板(2004年時)



遠くに見えるのは、馬渡島

 朝鮮出兵の頃、肥前の隣筑前を小早川隆景が治めており、秀吉が名護屋城築城を見据えての事であったという説もあります。隆景は文禄3年、養子として秀秋を迎え、筑前を秀秋に譲り、慶長2年没しています。慶長の役には、秀秋が出陣し清水家も加わっていたようですが、秀秋は秀吉によって越前転風となり、事実上領土を失った為、家臣団の多くが秀秋の元を去ったとされています。清水景治も帰国後、秀秋から離れたとみられています。